1/05/2009

1787.Jean François de Galaup, comte de La Pérouse first survey at Detroit de Coree and Dagelet,

日本海北西部朝鮮沿岸や、北東部Tataristanの地理情報は、世界航海が盛んになり始めても、1780年代になっても結局残されたままだった。La Perouseが日本海Mer Du Japon海域を探検し、朝鮮海峡Detroit de Coreeを測量し、これらの情報は、朝鮮半島東沿岸部を探検測量した英国のBroughtonや、ロシアのKrusesternなど"日本海”の探検家へと引き継がれる。これが契機で1730-1770年頃まで一時的に増えていた朝鮮海の記載が急減する一方で、朝鮮海峡の名称が新たに登場し、更に日本海が圧倒的多数に成ったのである。また、この後Broughtonの朝鮮東海岸の測量によってフランスなどの地圖にはBroughton Bayの附近にMer Du Coree(後のBroughton Bay, 現在のEast Korean Gulf)が記載される事となる。

日本海・朝鮮海峡関連で、シーボルトは以下のように記述している。
25日夜間、わが艦は朝鮮の海峡を通過した。日没直後に、日本の海岸が東四分の一北東から東南東にかけて広がり、朝鮮の海岸が北西から北にかけて広がるさまを認めた。海は北東の方角に大きく広がっていくように見えたが、この方角からかなり大きなうねりが来ることがわかり、やはり海はこの方向に広がるのであると確認できた。
南西から疾風、夜は非常に明るかった。追い風を受けて航行、出来る限り縮帆して時速三分の二リユまでしか出ないようにした。太陽が昇り始めたらすぐに、前日夕刻の測量地点を確認し、朝鮮の海峡の正確な海図を引くためであった。私達の測量はすべてダジュレ氏に委ねられていたが、それに基づいて作成される海図の正確さについては、文句のつけようのないものであった。三十分ごとに水深測量を繰り返していて、辿っていくには朝鮮半島沿岸部のほうが、日本沿岸よりも興味深いように思われたので、朝鮮側から二リユの距離まで近づき、陸地の進む方向に平行して航行することとした。
Refernced from ;La Perouse 太平洋周航記 下 佐藤淳二訳 第十五章 カビナテ出航、台湾・朝鮮海峡から日本海へ

能登岬の測定によってラ・ペルーズは、この海域の水路測量のために大きな貢献をしたのである。なぜなら、朝鮮や沿海州沿岸との関係における日本の位置 は、これによってかなり画定されることになったからである。彼らは次のように言っている。「大多数の読者にとって、まさに不毛と思われるこの短い鑑札のた めに、我々は濃霧おなかでの困難な十日間の航海を要したのだった。地理学者たちは、われわれがこの時間をよく利用したと考えるだろうが、ただわれわれの広 大な計画が、この沿岸、ことにこの国と朝鮮とを判っている海峡の芯の形を記述するtことが出来たと思われる南へ見勝手いくつかの地点を、調査士かつ測定す ることが許されなったことを遺憾におもうであろう。」、
Refernced from ;Philip von Sebold ”Japan" Vol1 第四章 ヨーロッパ人による日本とその海域発見の歴史的概観 P81

竹島問題関連
"...May 27th I gave the signal that we arrived on the East Sea. After a short while, to the North~Northeast an island was observed that was not on any charts. This island seemed to be 20 leagues (actual 137kms) away from the Chosun coast. I tried to approach the island but it was difficult because the island was is the same direction as the winds. Fortunately, during the night the direction of the wind had changed. (May 28th) By dawn we left toward the island for measurements and I decided to name this island Dagelet after the astronomer Lapaute Dagelet among our crew who sighted it first. The circumference of the island is only three leagues (actual 33kms) Maintaining a distance of 1.9kms from the island we travelled almost all around but failed to find deep water. Therefore I decided to lower a small boat into the water and left Boutin in command to check the depths of water en route to land. He soon found that the depth of this place was 140 meters and it was about 200 meters from the island. The Northeast point of the island is 37° 25' North latitude and the 129° 2' East longitude. Even though the island is made of sheer cliffs, from the top to the shore it is covered with very beautiful trees. Other that seven little inlets for mooring the island is surrounded by precipitous cliffs. In this little inlet we observed some boats of Chinese style being built. It appeared that those boat builders were startled by our ship maybe because they were within the range of our cannons. They fled into the woods about 50 paces from their workplace. However, what we saw was a few huts, with no village or crops. It appeared that some Chosun carpenters from the mainland which is only 110 kms from Dagelet come with provisions and build boats during the summer before they take them to the mainland for sale. I'm sure this assumption is correct. When we returned to the West point of the island we again observed other workers building boats but they didn't see us approach because a point of land blocked their view. Those people by a tree stump looked frightened to see us except for a couple of them who didn't seemed to be afraid of us, they all ran into the woods. I thought we needed to persuade them that we are good people and are not their enemy so I looked for a place to drop anchor. Unfortunately the strong currents pushed us away from the island. Night approached. Due to our concerns that we might again be pushed from the island, and fears of not being able to retrieve the dispatched boat under Boutin's command I signalled to M. Boutin, who was about to land, and ordered him to return. I ordered the Astrolobe which was far to the West due to currents, to approach Mr Boutin's group. Luckily the high peaks of Dagelet blocked the winds and spend the night peacefully...."
27日、船首を風下の東に向けるよう合図したが、まもなく北北西に海図にない島を認めた。朝鮮半島から約20リユくらい沖合いであった。島に接近しようと試みたが、島へと風が吹つけていたので接近は無理だった。しかし夜のうちに風向きも変わり、空が白む頃にはこの島を偵察するべく船首を向けた。この島を最初に発見した天文学者であるダジュレ氏にちなんで、ダジュレ島と命名した。島は周囲僅かに三リユ、海岸線に沿って進み、ほとんど一周したが、三分の一リユまでせっきんしても海底を測深できなかった。そこでボートを降ろし岸辺まで測深させることを決断、ボートの指揮をブタン氏にとらせた。彼の報告では、海岸に打ち寄せるうねりが始まるあたり、島の岸から100トワーズの距離でやっと20ブラスの水深を測ることができたという。島の北東端は、緯度三十七度二十五分、パリ子午線緯度百二十九度二分であった。島は、一周三リユほどであろうか、切り立った海岸であったが、頂上から海面附近まで眼も覚めるような美しい樹木で覆われていた。剥き出しの岩壁が、殆ど城壁のように垂直に 立して島をぐるりと取り巻いていたが、例外として七箇所の砂浜の小さな入り江があり、そこは上陸可能であった。この入り江にみつけた作業場には、中国船とまったく同一の形状の船がいくつか建造中であった。艦載砲の射程距離内に私達の艦艇が現れるや、職人達は仰天したのか、作業場から五十歩と離れていない森の茂みの中に逃げ込んでいった。それとは別に、小屋がいくつか見受けられはしたものの、集落も耕作地も無かった。つまり、一番ありえそうな推論は、次のようになる。即ち、二十リユばかりしか離れていない朝鮮半島から船大工たちが渡ってきて、ここで作った船を朝鮮各地で売るのだろう、と。これは最初は憶測だったが、しかし次第に確信に変わっていった。というのは、西側の岬を回りこんだ際に、ここにもさらに作業場があって、それまで岬に隠れて見えなかったわが艦艇が突然姿を現したものだから、浜の職人たちがびっくりして森に転がるように逃げていくのを目撃したらだった。私たちを見ても平然として後に残っていたのは、せいぜい二、三人であった。停泊できる場所を見つけて友好の態度を示し、是非とも私たちが敵でないことを納得させたかったのだが、しかし激しい潮流によって船は岸から引き離されたのだった。周囲は夜の帳が下りようとしていたので、ボートに帰還を命じざるを得なかった。ブタン氏は上陸目前であったが、船が風下に流されてボートが改修できなくなる事を私は強く懸念したからである。潮流にながされてずっと西にまで進んでいたアストロラブ号にようやく追いつく頃には、凪の静かな夜となった。ダジュレ島にXえる山々が、沖合いからの突風を遮ってくれるおかげだった。
Refernced from ;La Perouse 太平洋周航記 下 佐藤淳二訳 第十五章 カビナテ出航、台湾・朝鮮海峡から日本海へ

不成功に終わった彼の航海の第三年目に当たる一七八七年六月六日、能登国の幅広い半島の一部をなす本州の西北の海岸をかすめて通った。これは19世紀のはじめまでヨーロッパ人の航海者が訪れた日本の北西の端の唯一の地点である。
そこへ向かう途上彼は、日本人には既に以前から知られていた小島、松島Matsushimaを発見し、これをダジュレーDageletと名づけた。
Refernced from ;Philip von Sebold ”Japan" Vol1 第四章 ヨーロッパ人による日本とその海域発見の歴史的概観 P80-81

Cf:
・Chart by La Perouse
   Mers, Chine, Tartarie. La Perouse, Jean-Francois de Galaup, comte de, 1741-1788, 1797
   Plan de Eile Dagelet 鬱陵島






Maps by Sebold collection .(requires Djvu Installation)

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